12月 05 2018

1995年1月17日早朝5時46分に起こった阪神淡路大震災を、当時住んでいた、兵庫県神戸市長田区の自宅マンションで経験しました。阪神淡路大震災はご存知の通り、兵庫県南部に起きた大地震で当時は震度6だと言われていましたが、その後震度に対する基準が変わり最大震度7に変わりました。でも、私の体感と被害の大きさから考えると…もっと大きかったのではないかと思えてなりません。6000人以上も亡くなるという被害が大きな災害でした。

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私はマンションに住んでおり、幸いなことに半壊ですみましたのでずっと自宅で過ごしました。タンスが倒れたり、食器棚から茶碗やグラスは落ちましたが、家族の誰一人として怪我はありませんでした。私のマンションの隣近所は、全壊した家も多く、しかも近くでは火災も多発していたのでかなり怖かったです。とはいえ、家自体は無事であることから、避難所へ行くのはためらわれ、ずっと家族で過ごしました。

電気は早くに復旧し、水道も思ったより早くに普及したので助かりましたが、食べ物などは備蓄が無くなっても、避難所では分けてもらえませんでした。家が全壊した人達からみたら、私達は恵まれていると思われたからだと思います。仕方がないので、何駅も歩いて買い出しに行ったりしたことを覚えています。その時に感じたのは、同じ被災者なのに境遇が違うと人は冷たいのだということでした。

それ以外に辛かったのは、ガスが普及するまでには何か月もかかったことでした。当然お風呂には入れない日が続きました。ガスが復旧した地域の親戚の家まで、電車が走っている駅まで歩いていったり、営業している銭湯を探して行ったりしていました。季節が冬だったので、どうにか我慢することができました。

当時はスマホも携帯電話すらなかったので、災害時にはテレビだけが情報源なので電気がつくまでは、何の情報も得られませんでした。最初は辺りも暗くて状態がまったくわからず、これほどの被害が出ていると想像もしていませんでした。ただ、今日は仕事にはいけそうにないな…と考えていました。テレビがついて神戸の街の状況を見て驚愕しました。いつも見ている場所が恐ろしい状態になっている情景を目の当たりにしたときに、やっと事の重大さを理解できました。また、映し出される大火災の映像が、家の近くへだんだんとせまってきているのを見ていたら生きた心地がしませんでした。かといって、どこへどうやって逃げればいいのか?という不安な気持ちでいっぱいでした。

とりあえず、もしもの場合はすぐに逃げられるような恰好で寝起きをして、荷物もしっかりと準備する事くらいしかできませんでした。真冬なのにお風呂へ入れず、身体が冷えて寝るのに苦労していましたが、そのときに活躍したのが使い捨てカイロでした。布団の足元に入れておくととても暖かく、気持ちよく寝る事ができました。

今はスマホもありますし、lineやTwitterはおそらく機能するのではないかと考えています。
今絶対に連絡を取りたい相手は、子供くらいなので子供には学校なり外で災害に遭遇した場合は、なにはともあれ安全な場所にいるように伝えています。しばらくしたら、必ず連絡はとれるはずだと思っているのでなによりも安全を優先するようにと話しています。

もちろん自宅周辺や学校周辺の避難場所は確認しています。また、先日の北海道地震でスマホの充電に困っている映像を見て、電池式のバッテリーが必要だと感じました。子供にもそう伝えて持たせるようにしています。

災害は本当にいつ起こるかわかりません。日本の場合はどこにいても安心という場所は無いと感じており各地で災害がおこるたびに、気の引き締まる思いがしています。